空にそよ風、日の光
白い葉うらを見せながら、若木はきょうものびている
矢部小学校 元気な子
明るくそだて 若木のように
懐かしいですねー!ご存じの方も多いと思います。矢部小学校校歌です。
この作詞をしてくださったのは、佐藤さとる。
校歌制定の1975(昭和50)年に学校に寄せた手紙には幼いころの谷矢部の記憶をつづっています。
「矢部小学校の建っているあたりも、むかしは一面のたんぼで、まわりをみどりの森がかこんでいました。私も、よくザリガニやオタマジャクシをつかまえにきたり、つみくさにきたりしたものです。つまり、みなさんの今立っている地面の下には、少し前、子どもだった私たちの、そんななつかしい思い出がたくさんしまいこまれているのです。ここは、私にとっても、大切な場所であるといえます。
佐藤さとるの代表作である『コロボックル物語』は、『だれも知らない小さな国』(1959・昭和34年)で始まり半世紀以上にわたって書き継がれています。累計250万人が読んだ日本人の愛読書ともいえる作品ですので、お読みになった方も多いと思います。
佐藤は、1928(昭和3)年に横須賀で生まれ、1938(昭和13)年から鎌倉郡(現在の戸塚区)戸塚町に移り、戸塚小学校、横浜第三中学校(現在の神奈川県立緑ヶ丘高等学校)を経て、第二次大戦後、関東学院工業専門学校建築科を卒業。横浜市役所、横浜市教育委員会、瀬谷区原中学校の数学教員を務めました。その間、今の谷矢部西町内会の「しらかば幼稚園」の裏山の小さな坂道の脇の家に1965(昭和40)年まで住んでいました。
自伝物語『オウリイと呼ばれたころ』には、当時の家の周囲の様子を著しています。
「駅へは子供の足で20分ほど、学校は駅からまた7,8分かかる。(中略) 周囲はほとんど農村で家は小高い丘の中腹にあり、その丘までは田んぼの中の細道をたどっていく。夏の夜は、どこからかフクロウの鳴き声が聞こえたりした。」
この自伝には、ホームが一つしかない戸塚駅も描かれ、航空母艦「蒼龍」に乗艦しミッドウェー海戦で帰らぬ人となった海軍将校の父と、最後にこの駅で別れました。そして、1945(昭和20)年5月29日の朝には、横浜の空爆に向かうアメリカの爆撃機を裏山で見送ったことも記されています。この時、佐藤さとるが駆け上った丘は今の鳥が丘(当時は鳥が谷)であり、横浜を焼く黒煙を背にした丘とは坂本公園のある丘ではないかと想像します。
2021年の夏に神奈県立近代文学館で開催された「佐藤さとる展」を企画した同館展示課課長の半田典子さんは、谷矢部で暮らした時期が作品に与えた影響について、次のようにお話してくださいました。
「戦争は、佐藤から父をはじめとした多くの命、そして青春や夢見る時間といった大切なものを奪い去りました。戦中・戦争直後は長男として一家を支えるために必死で働く苦しい時代を過ごしますが、中学校時代の親友との友情は絶えることはありませんでした。この頃の友が作品にモデルとなって度々登場してきています。困難な時を共に過ごしたからこそ、深い心の交流があったのだと思います。
また、谷矢部に残る自然も多く描いています。『だれも知らない小さな国』ではコロボックルの住む国を壊そうとする新しい道路計画のこと、また『ふしぎな目をした男の子』ではコロボックルの先祖が造った沼の埋め立て計画が持ち上がります。道路計画は横浜新道の建設、そして埋め立てられようとした沼は矢部池だと思われますが、それらは、コロボックルの存在を守りぬこうとする人々の情熱、人間と彼らとの強い絆によって阻止されます。時が流れても保ち続けるべき大切なものとして描き出されているのです。」
谷矢部東町内には、佐藤さとるの矢部での暮らしを知る方が今でも住んでおられます。長女まどみさんを、東戸塚小学校で担任として教えた新井春海さん(14班)からはこんなお話もお聞きしました。
「当時は30歳そこそこの未熟な教師でしたが、がむしゃらに子ども達と接していましたね。NHKラジオから流れる本の朗読を児童に聞かせて感想文を書いてもらい、放送局に送ったりしていましたが、何度かまどみさんの感想文が番組で取り上げられたことがありました。家庭訪問の時に、お母様が戸塚中学の国語の先生、お父様が童話作家をなさっていると伺い、なるほど、子どもが自身の夢や希望をのびのびと育めるように見守っているご両親なのだと思ったことを覚えています。
その折にいただいた、講談社から出版されたばかりの『だれも知らない小さな国』の本は、今も大切にしています。お父様の作品を読むと、ご家庭を愛し慈しんでおられたからこそ、国を愛し地域を愛する気持ちにあふれた物語なのだ、と実感できますね。」
佐藤さとるは2017年2月9日に88歳で世を去り、今は柳作町内の雲林寺に眠っています。今でも時折、佐藤さとるの作品を愛する人達が訪れて静かに手を合わせていると、雲林寺の住職の北見秀明さんが話されていました。
平和と自然と子どもを愛し、「人が、それぞれの心の中に持っている、小さな世界」を描くためにペンを執り続けた佐藤さとるの作品群は、谷矢部の豊かな自然と温かな人々とのつながりから生まれてきたのかもしれません。今、佐藤さとるの様々な、なつかしい思い出がたくさんしまいこまれている土地で暮らす私たちも、彼の空気や気配を感じながら、改めて作品を読み返してみたいと思います。