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土地の記憶 その7 柏尾川が氾濫⁉ さぁどうする⁇

 1590(天正18)年、小田原北条氏を滅ぼし天下統一を果たした豊臣秀吉は、徳川家康に箱根以東の北条氏の旧領に移り江戸(今の東京)を居城とするように命じます。家康にとって真に恐れるべき敵は秀吉であり、西から攻めて来る豊臣軍との戦に備えなくてはならなくなりました。戦は城をめぐる攻防ではなく、必要な時に必要な場所に大軍を集中できるかどうかが勝敗を決する時代に大きく変わってきています。万を超える軍隊を速やかに移動させるためにはよく整備されたまっすぐな道が欠かせないのですが、江戸と小田原を結ぶ重要な地である大船近くの柏尾川流域は、古代には海の中にあった沖積低地。近世に入ってもしばしば氾濫を繰り返す、水はけの悪い泥沼のような場所です。従来の街道は大きく迂回しているような状況でした。

さぁ、どうする家康⁉

今回は、柏尾川の水害と改修の記憶をたどります。

「暴れ川」の柏尾川と、家康による東海道の大工事

『戸塚区史』 第3章 戸塚宿のにぎわい p89
『戸塚区史』 第3章 戸塚宿のにぎわい p89

 家康は北条氏滅亡の翌年には、早速新しい領地の検地を行って実態の把握と年貢の確保に努める一方、いつでも、季節と天候に左右されずに大軍を江戸から小田原に向けて移動できる新しい街道(後の東海道)の建設を開始します。戸塚区汲沢の旧家森家に伝わる家譜には以下のような記録が残っています。

「森家三代 義秀 天正19(1590)年、村境(普請)を仰せつかり、谷切・道切・峯切・川切の4通のお触れ」

現代語にすると「山を削って谷を埋め、川の流れを変えて道を切り開くことを仰せつかった」ことになります。

簡単な記述ですが、おそらく工事は困難を極めたでしょう。

 

 このころの柏尾川は幅が狭く、上流から河口までの距離は12キロ程度にもかかわらず曲がりくねっていました。また沿岸一帯には深い山も大きな沢もない平らな土地であったため、豪雨の時にはたちまち氾濫します。柏尾川の水脈を確認すると、現在の港南区の山間部に発する「永谷川」と、三ツ境付近を源流とする「阿久和川」が現在の富士橋付近で合流して柏尾川本流となり、「舞岡川」と合わさります。笠間付近で「いたち川」と合流して大船に流れた後に向きを南西に変え、「境川」に合流して江の島の海へと流れていきます(右図参照)。多くの水を集めながら、海との高度差はわずか12メートル。普段はゆるやかな流れなのですが、河口の潮位が上がると逆流になることもあり、ちょっとした大雨でもすぐに洪水になってしまいます。

 

ここに街道を造るために、おそらく昼夜を問わず、山を切り崩しその土で沼地や谷を埋め立てる工事が続いたでしょう。こうして、旧来の曲がりくねった道ではなく、大軍を箱根方面へ速やかに動かせる直線的な街道が整備されたのです。その間、たった1年!柏尾川を渡り、吉田、戸塚を過ぎて大坂をのぼり、原宿から坂を降りて遊行寺の横に抜ける、新しい道「東海道」が造られました。

氾濫を繰り返す柏尾川

『柏尾川物語』p28 より
『柏尾川物語』p28 より

 東海道は整備されたものの、柏尾川は氾濫を繰り返します。

暴れん坊ぶりに拍車をかけたのが1887(明治20)年の東海道線の開通です。一面が田んぼである戸塚地域に線路が通ることになれば水がせき止められて流れなくなる、一部の線路は高架にすべきと農家が陳情しますが、当時の鉄道省(現在のJR)は「費用がない」と拒否。かわりに土管を埋めて水抜きをする方法をとったのですが、豪雨の際には機能せずに軒下まで浸水する被害が続出。「鉄道をぶち壊せ」という騒ぎにまでなりました。こうした水害を解決するため、古くは江戸時代から明治時代の末にも大改修が行われました。

「土地の記憶 その5 柏尾川の桜と戦争と」参照)

 

しかし洪水は治まらず、特に1958(昭和33)年の狩野川(かのがわ)台風は甚大な被害をもたらし、また1973(昭和48)年からは5年連続で大水害に見舞われ、床上浸水が多発するようになりました。これは急激な都市化により地域全体で降った雨を地中に浸透させたり、一時的に水を貯える力が衰えたことが原因といわれています。山や田畑だったところに建物が建ち、川の近くまで人が住み、地面がアスファルトでおおわれたため、降った雨は地中にしみこまず一気に柏尾川に流れ込むようになったのです。川沿いの農地が次々に住宅に変わったために、被害を受けるのも農作物から住宅や人へと変わっていきました。

 

 矢部団地(現・プロムナード矢部)や上倉田団地(現・コンフォール上倉田)では、洪水に備えて1階にボートが吊るしてあり、水があふれたときにはボートを使って移動をした写真も残っています。東戸塚小学校に通っていた町内の横森健さん(1班)は柏尾川の氾濫して給食室が水を被り給食が中止になったと教えてくださいました。「6年間に2〜3回ほどあり、長いときは数ヶ月も給食がありませんでした。お弁当が食べられて嬉しかったんですが、母は大変だっただろうと思います」とのことです。

水害を起こさない川へ

『柏尾川物語』p29 より
『柏尾川物語』p29 より

こうした水害を防ぐために、1976(昭和51)年に激甚災害対策緊急整備事業として川幅を広げ、川を掘り下げ、堤防を強くする工事を行いました。1979(昭和54)年には境川(水系)が総合治水対策特定河川事業に指定され、降った雨が一気に川が流れ込まないような設備や、集まった川の水を調整するための遊水地等の造成といった多くの対策が行われました。谷矢部東周辺においても、住宅地になった鳥が丘に遊水池を整備し降雨を一時的に貯めることにより、谷矢部東や柏尾川に雨水の流れ込みが緩やかになるようにしました。1975(昭和55)~1977(昭和57)年には町内の周辺に多く見られた水路を地下に埋めて暗渠(あんきょ)として水を川まで流しこむといった工事も行われ、バス通りの下には現在、直径2.8mのコンクリート管が『雨水幹線』として埋められています。柳作や矢部池、鳥が丘地区の地下水や雨水を柏尾川まで流しているのです。

「土地の記憶 その1 水脈探訪」参照)

 

 

万が一に備える

こうした対策事業は1989(平成元)年までに終了し、谷矢部東近辺では浸水といった大きな水害が発生することはなくなりました。

 しかし、近年の気候変動により、日本中で『今までに経験したことのない』災害が頻発しています。決して油断することなく、日ごろから「万が一」に備えなくてはならないと思います。「戸塚区洪水ハザードマップ」で確認すると、24時間に623ミリ以上の降雨があった場合には、谷矢部東町内の大部分で0.5~3メートルの浸水が想定されています。盛り土による「かさ上げ」を行ったうえで住宅を建てるという対策を講じているお宅も多いのですが、大雨の際には、ぜひ自宅の2階以上に移動する「垂直避難」をし、平屋・木造家屋である場合には、あらかじめ安全な場所にあるホテルやマンション等の高い建物や親せき宅といった避難場所を決めておいて移動する「水平避難」をお勧めしたいと思います。

戸塚区洪水ハザードマップ 

わいわい防災マップ(詳細な住所から洪水・内水等の浸水状況を確認できます)

谷矢部東には土砂災害の危険性はありませんが、梅雨から台風の季節を迎えるにあたっては、災害に対する再度の確認と備えをお願いします。

水があふれそうになってから、「どうする?どうする??」と慌てないよう、「マイ・タイムライン」を作り、自分と家族の行動を時系列でわかりやすく整理しておくのが良いと思います。

 マイ・タイムライン作成シート

 

<参考文献>

『戸塚区史』 戸塚区史刊行委員会 平成3年3月発行

『柏尾川物語』 横浜市戸塚区役所 平成16年7月発行

『広報横浜戸塚区版』 2023年NO.306 表紙