谷矢部東町内の隣のマンション「ファミール戸塚」は1997年に竣工しましたが、ここにはその昔、「金星商会」という会社の大きな工場がありました。工場の高い煙突には、夜になると「虫よけに」と「ホドヂン」という言葉が交互に現れるネオンサインが輝いていたそうです。
1955(昭和30)年、工場に近接する谷矢部東12班に越して来た鈴木正雄さんは「灯が少なく暗かった当時の町にネオンサインは光り輝いていて、窓のカーテン越しにも文字がよく見えた」と少年時代の記憶を話してくださいました。
ちょっと変わった名前の虫よけ「ホドヂン」とは何でしょう?ここにはどんな工場があったのでしょう?今回はホドヂンをめぐる記憶をたどります。
ホドヂンは、昭和初期に開発された「衣料用防虫剤」
ホドヂンは、衣服を食い荒らす虫やカビなどを忌避する効果のある化学物質パラジクロロベンゼンを錠剤にした「衣料用防虫剤」です。骨董品店でたまに見かけるホドヂンの箱に記載されている「保土谷曹達株式会社(現:保土谷化学工業株式会社)」という製造会社名と、販売「金星商会」という言葉を手掛かりに、保土谷化学工業の毛利康宏さんにお話をうかがうことができました。
「当社はホドヂンの原料となるパラジクロロベンゼンの生産を1927(昭和2)年に開始し、それを錠剤化したものを衣料用防虫剤・ホドヂンとして1930(昭和4)年に販売を始めました。原料のパラジクロロベンゼンは、私たちの郡山工場(福島県)で生産していましたが、当初は同工場で錠剤のホドヂンそのものも生産していたのかもしれません」
「パラジクロロベンゼン系の防虫剤は、それまで衣料用防虫剤として使用されていたナフタリンや樟脳(しょうのう)に比べて素早い効き目があることにより、発売から昭和の終わり頃までは大きな販売になっていたようです」
錠剤「ホドヂン」を箱詰めし販売していた「金星商会」
煙突の工場「金星商会」についても、毛利さんからお聞きしました。
「保土谷曹達が戸塚に工場を保有していた記録はありませんので、いつの時点かは定かではありませんが、販売代理店だった金星商会が箱詰めにして販売を始めたのではないかと想像します」
蔵坪町内の方からは
「近隣では、金星商会からホドヂンの箱詰めを手伝う内職をしている家もありました。家の中が虫よけの匂いでいっぱいになっていましたね」と、平成に入るまでは大きな売上を誇っていたことを裏付ける貴重なお話も!
しかしその後、
「同じ原料のパラジクロロベンゼンを使って、白元(現・白元アース)のパラゾールやエステー化学(現・エステー)のネオパラエースにおされ、無臭系のミセスロイドやムシューダに市場が変わり始めたこともあり、金星商会の販売は縮小し、ほどなくホドヂンの生産も停止して廃業したと記憶しています」と毛利さんは続けました。
なお、保土谷化学工業の社史にはベンジンと差別化した着物の手入れ用の「衿元(えりもと)」を開発し1934(昭和9)年に生産を始めたという記載もありました。「衿元」の大きな看板が東海道線の電車から見えたことを覚えている方も町内におられると思います。この商品も金星商会で取り扱っていたようです。
偶然ですが、毛利さんは大学卒業後の1994(平成6)年に保土谷化学工業に入社し、配属された化学品事業部で金星商会を担当なさったそうです。
「金星商会がホドヂンの生産を停止するまで、年に1~2度訪問していました。
工場には最後に上り坂があり、夏には汗が噴き出ました。50歳代くらいの工場長がおられて非常にお優しく、新入社員だった私にも丁寧に対応していただきました。生産を停止するとお聞きして、私は急いで公衆電話から上司に報告しました」
ホドヂンの販売が終了してから30年近くが経ちました。
毛利さんが汗をかきながら登った急坂の上には、今、「ファミール戸塚」がそびえ立っています。
往時のことを知る人はほとんどいなくなりました。
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関野 (金曜日, 03 5月 2024 12:15)
ホドヂンの池