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土地の記憶 その5 柏尾川の桜と戦争と…

2023年、戸塚・柏尾川プロムナードの桜は3月下旬に見ごろを迎えました。お花見に出かけた方も多いと思います。

柏尾川の桜は、大雨で壊れた堤防の改修記念に江戸時代末期の1856(安政3)年に初めて植えられ、植え替えを経て、現在の桜並木は1952(昭和27)年に戸塚の商店会などの有志が中心となり植えた2,000本を礎としています。その後、1976(昭和51)年の川の堤防大改修時に多くを切り、約200本を残しつつ500本余りを新たに植え、現在のような桜並木となりました。

今回は柏尾川の桜にまつわる「土地の記憶」をさかのぼります。

与謝野晶子も訪れた桜の名所は明治時代につくられた!

明治時代末に行われた柏尾川耕地整理計画図(上倉田町 實方家蔵)
明治時代末に行われた柏尾川耕地整理計画図(上倉田町 實方家蔵)

雨が続くとすぐに氾濫する、曲がりくねった柏尾川の流れは、周辺の村に洪水を引き起こし作物の収穫に大きく影響しました。1901(明治34)年、明治天皇が横須賀に行かれる際に列車の窓から洪水直後の戸塚の惨状を見て嘆かれたことをきかっけに、大規模な河川改修と耕地整理が行われました。

川の急に曲がる箇所は川幅を広げて直線にし堤防を築き、川底を掘り下げました。周囲の水田を碁盤状に整え水路を整備。現代のような重機のない明治時代ですので、工事は鍬やシャベルを使ってトロッコで土を運ぶ大工事となった記録が、上倉田町の旧家に残されています。

この大改修の完成の記念に川の土手には顕彰碑を建て、また両岸に戸塚の駅から大船の間近まで一里(4キロ)余にわたり1,000とも2,000とも言われる桜を植えました。

その後、桜は順調に育ち花のトンネルを作るようになり、関東屈指の桜の名所として昭和初期には毎年50もの茶屋が軒を連ねました。堤防は人で埋まるようになったようです。絶頂期の1932(昭和7)・1933(昭和8)年には、戸塚の料理屋・待合茶屋・置屋(芸者屋)の組合が、川に花見舟を浮かべて芸者と一緒に舟遊びを楽しませる優雅な趣向も催したとか。

「青い空にどこまでも続く桜トンネル、スミレや菜の花が咲き乱れる土手、そして花見舟の浮かんだ柏尾川は夢のように美しかった」と下倉田町の方が記憶しています。この頃、近代短歌を代表する歌人の与謝野實(鉄幹)・晶子夫妻も訪れて歌を残しました。

 

ながながと三万人の人影を まじえて霞む堤の桜(實)

少女皆春風をふむ足取りに 袖なびき行く花のもとかな(實)

咲く花の空につづける幕打ちて 正しく走る柏尾川かな(晶子)

花の道向かひて長く白きかな 水の流れは一筋にして(晶子)

第二次大戦前に撮影された柏尾川の桜並木(坂本写真スタジオ)
第二次大戦前に撮影された柏尾川の桜並木(坂本写真スタジオ)
のきを連ねた茶店のにぎわい
のきを連ねた茶店のにぎわい
せき止めた柏尾川(高嶋橋付近)でボート遊びをする人びと(昭和12年頃)
せき止めた柏尾川(高嶋橋付近)でボート遊びをする人びと(昭和12年頃)

たきぎや下駄になった、桜たち

こうした花見のにぎわいも、日中戦争の長期化による価格統制令の施行や第二次世界大戦の戦局の悪化で影をひそめていきます。

そしてついに、1944(昭和19)年には疎開学童のたきぎや下駄に供するために伐採されることになりました。その時の様子は新聞の記事から読み取れます。

 

燃料と下駄材に応召 戸塚堤と鶴見川堤の桜樹

「時代の波に乗って戸塚堤、鶴見川堤の桜もいよいよ応召(召集令状を受け軍務につくこと)する。横浜市では市内疎開学童給食用の炊飯用と残留学童用下駄工作資材として、桜の名所戸塚区柏尾川桜樹200本に鶴見川堤の桜樹192本を伐採して、明年3月までの薪9千束を確保し、なおかつ下駄材を確保することとなった。伐採は市内浴場組合員が奉仕し運搬は学童がこれに当たる。下駄は残留学童が手工授業時間に工作に従事し残留学童用にあてる。戸塚柏尾川の樹齢は20年以上の大木であり鶴見川の樹齢もまたこれ以上のものである」

(神奈川新聞 19441119日)

 

当時戸塚には、保土ヶ谷区内の峰、保土ヶ谷、帷子といった3つの国民学校(小学校)の3~6年生の児童1,173名が神社や寺に集団疎開して来ていました。

戸塚国民学校(現・戸塚小学校)の児童も昭和198月に家族と別れ、戸塚や泉の寺・神社に寝泊りしながら勉強を続けることになりました(下表参照)。戦争のために食料が不足し、育ちざかりのこどもたちはいつもお腹を空かせていました。勉強のかたわらで寺の本堂の掃除をしたり、畑を耕したりたきぎ集めをしました。一番楽しいできごとは家族との面会でした。

「面会の日が近づくと、待ちどおしくて、待ちどおしくてたまりませんでした。面会の日に大雪が降ったことがあります。私たちは、寒さや雪の冷たさを忘れて、はだしで両親のために雪かきをしました。家族から食べ物がとどくと、みんなでそれを分け合って食べました。どんなに少ない場合でも必ずみんなで分けました。何を食べてもとってもおいしかった」

学童疎開していた戸塚国民学校のこどもが書いた記録です。

こども達のために、桜を切ってたきぎや下駄の材料にするのは当然だったことでしょう。

学校名 人数 分団長名 疎開先
 峰 374 大丸治房 戸塚区 上矢部町・名瀬町
保土ヶ谷 510

天野丑之進

戸塚区 川上・大正地区

帷子 289

和光登

戸塚区 倉田町・他5町

戸塚 217

北井保孝

戸塚区 下飯田町・他3町

柏尾川プロムナードの桜(2020年4月)
柏尾川プロムナードの桜(2020年4月)

 戦後、柏尾川の堤には第二次大戦を戦った連合国と日本の間で交わされた「サンフランシスコ平和条約」の発効を記念して、1952(昭和27)年5月に再び2,000本の桜が植えられました。翌年にはお花見も復活。この1952年はまさに、谷矢部東が県営住宅地として開発が始まった年にもあたります。悲しく、苦しい戦争を乗り越え、新しい時代の始まりを感じさせる年だったのかもしれません。

 

今年は桜の花の下で、戦争と平和について想いをめぐらしてみたいと思います。

 

<参考文献>

『横浜の空襲と戦災 3(公式記録編)・6(世相編)』 横浜市 横浜の空襲を記録する会 昭和50年1月発行

『戸塚区史』  戸塚区史刊行委員会 平成3年3月発行

『柏尾川物語』 横浜市戸塚区役所 平成10年3月発行