谷矢部東から谷矢部西や鳥が丘に抜ける大小3つのトンネルは、「山」を掘って造ったものではないこと、ご存じでしょうか。
トンネルの上を走る「戸塚道路」(一般国道1号)は、旧・国道1号のバイパスであり、トンネルはその地下道になります。
GHQ占領下にあった第二次大戦後の日本をサンフランシスコ講和会議で再び独立に導いたものの、その癖のある独裁的な態度から「ワンマン宰相」とも呼ばれた、時の内閣総理大臣吉田茂が自宅の大磯から国会議事堂のある永田町へと車で向かうために着工した経緯もあって、「戸塚道路」は当時「ワンマン道路」と言われました。
バイパス造成にあたっては大規模な盛土(もりど)・切り土(きりど)があり、この工事のために谷矢部東周辺では住宅等の曳家(ひきや)が行われました。
今回は戸塚道路に関する「土地の記憶」をさかのぼります。
ワンマン道路が造られたわけ
戸塚道路は、交通の障害となっていた国鉄(現JR)東海道線・横須賀線との平面交差および、汲沢町付近における急勾配(縦断勾配6.7%、延長780m)箇所を解消するために、柏尾から汲沢を結ぶ延長約4㎞のバイパスとして、1954(昭和29)年度に完成しました。完成前、東海道線・横須賀線の踏切では遮断時間が最長時には1時間のうち50分にも及び、踏切で停まった車が最高時には655台も滞留し、踏切通過に1時間以上もかかることがしばしばだったと『横浜国道20年史』に記載されています。大磯の自宅から都内に向かう吉田茂が大渋滞に業を煮やして着工を指示し、1948(昭和23)年度に工事が始まりました。
同じ年に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が行政道路の一部として「横浜新道」の建設を指示していますので、線路を迂回して新しい道と結ぶことにより、小田原・湘南方面からの交通の利便性を飛躍的に高めることを意図していたのかもしれません。
曳家(ひきや)で、谷矢部東へ
このバイパスは当初、今の「しらかば幼稚園」裏の小道沿いの田んぼを埋めて造る計画だったと、古くから谷矢部に住む幼稚園園長の成宮保彦さんにうかがいました。
「弁護士など多くの人が参加して当初計画に反対する運動があったようですよ。その運動のためか、今の場所へと工事の計画変更があったと聞いています」。
もしかすると、幼稚園の裏山の小さな坂道の脇の家に大戦前から住んでいた童話作家の佐藤さとるもその運動を見聞きしていたのではないかと想像します。バイパス完成の翌年、1955(昭和30年)に書き始めた『だれも知らない小さな国』では、コロボックルの住む国を壊そうとする新しい道路の計画がコロボックル達の活躍によって中止される物語となっています。
一方、新たに道路の建設予定地になった土地には既に住宅が建っていました。そのうちの何軒かには、1952(昭和27)年に県営住宅地として開発された谷矢部東地区に移ってもらい、その跡に盛土(もりど)をして汲沢との標高差を調整したうえで道を通すことになりました。その「何軒か」のうちに、小泉豊さん・淳さんや金原さんのお宅が含まれ、今の13班に移って来られました。
移動の際に使われたのが「曳家(ひきや)」という工法。建築物を解体せずにそのまま水平移動させて他の場所に移すこと。最近では赤坂プリンスホテルの旧館や弘前城天守閣でも行われています。
「新しい場所に建て直すんじゃなくて、家がね、レールみたいなものに乗せられて引っ張って行かれるんだよ。家の中の家具は動かさなくても良くて、1カ月ほどで移ったね」とは、小泉豊さん。
また、管野(かんの)千津子さん(14班)もお母様の話として覚えておられました。
「丹精していた庭の上に家が曳かれて通り、庭が台無しになったと母が嘆いていました。同じ14班の網島さんもお母様から同様の話を聞いたことがあると話されていましたよ」。
街山八幡社境内も切り土に。神楽殿は曳家?
盛土には材料となる「土」を運んで来なくてはなりません。戸塚道路の場合には計画沿いの丘陵を「切り土」によって生じる「土」を活用したと思われます。盛土と切り土の対象となったと思われる箇所を国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所 遠藤龍一さんに教えていただきました。
「かなり古い事業ですので、移っていただいた家の数や、該当のお宅は既に分からなくなっていますが、当事務所の職員が地図や写真を見て、このあたりが盛土や切り土に該当するだろうと推定して、以下の地図を制作しました」。
「盛土の土は関東ローム層で、水を多く含んでいますので、十分に事前調査し慎重な施行を行い、木の杭をたくさん打ち込む等により耐力の増加を図る工事を実施したようです」と伺いました。『横浜国道20年史』(昭和56年/建設省関東地方建設局横浜国道工事事務所発行)によると、総事業費は当時の金額で5.6億円と記載されています(現在の貨幣価値に換算すると112億円程度)。
横浜国道事務所の皆様、ご協力をありがとうございます!
切り土の対象となった箇所を見ると、街山八幡社や來迎寺(らいこうじ/谷矢部西町内)が含まれています。
小泉豊さんは、
「八幡社境内の青少年会館はもともと神社の神楽殿だったんです。建物の位置も現在のところではなく、境内への階段を上がった左手、今の手水舎の裏手あたりにあったように記憶しています。神楽殿があった八幡社の山の一部が切り土の対象となり、神楽殿は曳家工法で今の場所に移したのでしょう」と思い出してくださいました。
その当時の神楽殿では「夏には神楽殿の中に紅白の幕が張られて、芸達者な方が踊り等を披露する『芸能大会』が開かれていました。私たちこどもも、この時だけは夜の外出が許されて楽しかった記憶があります。のどかでしたね~」とは、管野千津子さん。
來迎寺のご住職 安田教純さんは
「先代住職の頃に切り土があったようですが、残念ながら詳しく聞いていません。当寺院の裏手が切られた山の頂上に当たると思います。眼下に戸塚道路を見下ろせますよ」とのこと。
小泉豊さんに当時の写真を2枚提供いただきました。谷矢部を横切る盛土の道路がはっきりとわかります。
写真には谷矢部東の新しい県営住宅も並んでいますので、ご自宅がどのあたりにあったのかを是非ご確認ください。
完成したばかり道は、こどもの遊び場に
1954(昭和29年)度に完成した新しい道は未舗装、片側一車線の有料道路。こども達には絶好の遊び場になりました。
「コーラの瓶が車から投げ捨てられて落ちて来たのを拾って、お小遣い稼ぎをしましたよ。1本10円で買ってもらえましたね(笑)」
「一番楽しかったのは、ダンボールをお尻に敷いて、新しくできた道の盛土の斜面で草滑りをしたことですよ」(横森健さん/1班)
小泉豊さんは、
「アイスキャンディーに使われる『当たり棒(あたり・はずれの焼き印が押された棒)』も落ちていないか探したね。「当たり」の棒はお店でアイスキャンディーと交換してもらえたからね」
「今の箱根駅伝の戸塚中継所近辺に料金所があって、通行料金のこぼれた小銭も拾って小遣いにしたよ。係の人と目があうと『おじさん、落ちたよー』なんて言ってね!」
さらに
「道路を走るトラックの荷台の後ろに掴まって自転車で走ったりね。怪我した子もいたな。上條さん(2班)、金原さん(13班)、高橋さん(13班)、安室さん(13班)、野原さん(14班)、栗田さん(6班B)と一緒に毎日遊び回ったよ。とにかくみーんな、元気な悪ガキだったんだよ」と話してくれました。
良い子の皆さんは絶対にまねをしないでくださいね。
そして、新しい戸塚道路のうえで、横森健さんとお母様は写真をパチリ。
素敵な1枚です。
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