5月29日は、1945(昭和20)年に横浜大空襲があった日です。午前中にアメリカ軍による空襲が横浜の市街地にあり、直後の公式発表では死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、罹災者は311,218人とされています。解説(横浜大空襲) 横浜市 (yokohama.lg.jp) この燃え上がる横浜を谷矢部から見ていた人が、この「ぶらりYABE」でも取り上げた童話作家の佐藤さとるでした。その時の様子を次のように記しています。(『オウリィと呼ばれたころ』 2014年 理論社刊)
「午前中に空襲警報が鳴った。(中略) 様子を見るつもりで庭に出てみると、大型爆撃機B29の編隊が、独特の爆音を響かせながら、高曇りの南西の空から、ふいに現れた。ぼくの家はたまたま西に向いた岡の中ほどにあり、編隊は真正面に見えた。そのまま真上に近づいてくるのを見たとき、ぼくは裏山へ登る小道を駆け上がった。(中略)ぼくは目が離せず、500機まで数えたときにようやく途切れた。これほどの爆撃機がどこに向かっているのかと思い、編隊群を見送るようにくるりと振り向いてぎょっとした。向かいの丘の後ろには、これまでに見たこともないような巨大な黒煙の柱が立っていた。幅はおよそ10キロにもなろうか。高さは上空の空にとどき、その雲を突き抜けているように思えた。首が痛くなるほどあお向けてて目をこらすと、その高い黒煙の中では、まるで獣の舌のような赤いものが、ちょろりちょろりと動いていた。炎だった。(横浜だ。横浜が燃えている)500機のB29は横浜の市街地を襲っていたのだ」
戦後に戸塚へ移り住んだ人の多い谷矢部東では戸塚も空襲を受けたことをご存じないかもしれませんが、調べると何度か被害を受けていることがわかりました。
今回は横浜大空襲のあった5月に、戸塚に残る戦争の記憶をたどります。
戸塚にも空襲が…
アメリカ軍は1942(昭和17)年4月18日に初めて東京・横浜・名古屋・大阪・神戸を次々と空襲し、それ以降、日本全土が市民を巻き込む戦場と化しました。戸塚でも1945(昭和20)年に7回も空襲を受けています。横浜市史資料室の羽田(はだ)博昭さんは戸塚の被害状況について次のように教えてくださいました。
「戸塚も何度か空襲は受けていますが、多くは他の目標の流れで区内に特定の目標があったということはないのではないかと思います。神奈川県警察が残した記録によると、4月15日・5月24日・7月13日にB29の空襲を受けたという記録はあります。なかでも、5月24日は30戸ほどの住宅が被害を受けています。当日の空襲の主目標は東京でしたが、天候、雲、風などの影響で目標を捉えられなかったB29がそれぞれ目標を変更して爆撃したものと考えられます」
その日は深夜の午前1時ごろから約2時間、東京を爆撃したB29爆撃機250機の一部が来襲し6ポンド油脂焼夷弾を多数落とし、岡津、瀬谷、戸塚、舞岡、倉田、上倉田、上郷の各町が被害を受け岡津小学校の校舎が炎上しています。この時の様子を戸塚海軍病院(現:国立病院機構「横浜医療センター」)日赤従軍看護婦だった横田晴江さん(旧姓:五十嵐、当時23歳)が日記に記していました。
「病院の廊下の窓に寄ると、北東の方角をのぞむ空が真っ赤だ。獲物を拾い探す探照灯の光。探す光に次々と入って来る白い魔(B29)の影をめがけて上がる火の玉。まるで川開きの花火のように夜の空に撒いた美しい光だ。淡い月の光が時折に地上を照らす。光に捕捉された1機が何と戸塚の上空を行く。追い打つ砲の響き。あぁ松並木から次々と火花が上がる」(『横浜の空襲と戦災1 体験記編 p543』横浜の空襲を記録する会編 1976(昭和51)年)
また、それに先立つ2月15日には戸塚海軍病院方面に数機による空襲があり死者3名と記録されていますが、横田さんの日記では数十人の死傷者が出て治療にあたったことが記されています(『横浜の空襲と戦災1 体験記編 』p542)。
戸塚地域の空爆の特徴として、艦載機など小型の戦闘機による機銃掃射の攻撃が多かったことを羽田さんは指摘しており、それを横田さんの体験記が裏付けています。
「ずいぶん前に「自給自足の命」があって、近所の農家の畑を借りてさつまいもを作っていた。空襲警報が鳴ると、動けない患者は担架に乗せてベッドの下に押し込み、動ける患者だけが防空壕に入っていた。急降下で敵機がやってきて、「とたんに機銃掃射の音、パッと屋根を突き破って私の頬をかすめた。床に突きささった敵弾、一瞬の出来事」だった。「頬のあたりが焼ける様に感じた」「なんという幸運か、あと1㎝、いや0.5㎝ずれていたら」と感じた。やがて6月にもなると、「もはや警報も慣れて敵機をみなければ退避しない」ようになっていた。そこで、「空を見上げながら草取り」をしていた。警報がなった後、空を見上げると、小さい機影が急降下の態勢に入ろうとしている。「あわてて、松林の中に逃げる」。「降下の時は爆音はしない」のだという。「松林に入るが早いか機銃の掃射、パッパッと土煙が上がる」。横田さんは、ここは「病院なのだ」、「大きな赤十字のマーク」も「屋根に書いてある」、それなのに「草取りをする私達めがけて2機」が襲ってきて、とてもくやしい思いをした。敵機は「ごう音を上げて今度は急上昇」し、また「ぐるりとまわって」急降下と、3回ほど繰り返した。「まるで鬼ごっこね」と同僚と苦笑いしながら、遠ざかる敵機を見送った」(『市史通信 第23号』 2015年)
軍需工場をねらった空襲ではなかった!
軍需生産が拡大する中、工場の拡張を急ぐ京浜重化学工業地帯の各社は新天地を求め、「京浜の大消費地に近接している」「鉄道や第一国道などの交通の便が良い」「柏尾川から工業用水が得やすい」「安価で豊富な労働力があり、周囲が農村地区であるために食糧事情が良い」「安くて広い土地が入手しやすい」といったことから、多くの軍需工場を戸塚に建設しました。横須賀線の窓から左右にながめられた柏尾川沿いの美田には大きな工場が次々と建ち、たちまちのうちに軍需工業地帯へと変貌していきます。戦時下、横浜市域は金沢、港北などの工場地帯がいくつかできましたが、戸塚地域が最も急激に変わりました。(『戸塚区史 p412』1991(平成3)年 戸塚区史刊行委員会編)
こうした大企業に関連の下請関係工場も続いて進出し、その一つとして以前にこの「ぶらりYABE」で取り上げた東亞特殊製鋼も谷矢部東に工場を建設しました。
しかし、前述のようなアメリカ軍の小型機による機銃掃射は、意外にも戸塚に軍需工場を狙ったのではなく大都市空襲をバックアップするために、高射砲陣地や監視所の攻撃を意図していたであろうと、羽田さんから教えていただきました。アメリカ軍は、焼夷弾による大都市空襲は戦意の喪失のために、機銃掃射はその都市空襲をバックアップのためという明らかな目的を持っていたことが様々な資料から伺われるとのことです。羽田さんは続けます。
「当時の日本ではそうした狙いは理解されていなかったと思います。そのため、都市・郊外に関わらず軍工廠や基地、高射砲陣地などがあると狙われると周辺の人々は思い、対策を行い、空襲を受けると『軍施設があったから攻撃された』と必ず証言されます。しかし、一番象徴的な例として横須賀は、小型機の攻撃以外には大規模な空襲を一度も受けていません。南方のラバウルやトラックといった有名な基地は毎日のように空襲を受けて徹底的にたたかれ、沖縄戦の頃には九州各地の基地が同様に空襲を受けてたたかれています。特攻の出撃を阻止するためです。米軍はやるとなったら徹底的にやります。本土の基地は九州以外、特に攻撃する必要がなかったということです。そうした合理性に基づいて、アメリカ軍は爆撃目標を決定していたのです」
防空壕に避難する人たち
一方、こうした空襲に備えようと、戸塚にも多くの防空壕が作られました。谷矢部東周辺で現在確認できるだけでも小トンネルを鳥が丘方向に出た右手の「神奈川県営サイドヒル矢部」の裏山、上矢部ふれあいの樹林の下のJR線路沿い、そして、ひまわり幼稚園の丘下のバス通り沿い(すでに埋められています)の3カ所に防空壕があったようです。
実際にこれらの防空壕に退避した経験のある方のお話は伺えていませんが、5月24日深夜の空襲の際には、「日本光学に爆弾が落ちたというので村の消防団が応援に出払ったすきに、こっちもやられた。軒下にいたらバリバリという音がして目の前が真っ赤になった。納屋を含め4棟が丸焼けになったが、ワラ屋根がクッションになって、突き刺さった焼夷弾が発火しなかった家も」と上倉田町在住の堀内輝夫さん(『戸塚区市』編集当時:泉区区政部長)も話しています(『戸塚区史』445p)。幸い、私たちの住んでいる谷矢部東での被害報告は見られませんでしたが、今も残る防空壕が近隣の住民の避難のために使われたことは間違いないと思われます。
1944(昭和19)年には、黒沢明が戸塚の工場で働く女子挺身隊を描いた映画の監督・脚本を手掛けていたことを戸塚見知楽会会長の根岸正夫さんに教えていただきました。タイトルは『一番美しく』。翌年には黒沢明の妻となる矢口陽子が主演しており、黒沢自身も生涯にわたって思い入れのある作品だったようです。前述の日本光学工業で働く少女たちを描いたプロパガンダ映画ですが、実際に女優達を入寮させて工員と同じ生活を送りながら撮影しました。アジア各地で戦った日本兵もこの映画を観て、故郷に残してきた愛しい姉妹や恋人、母を思い出していたのかもしれません。
Amazonプライムなどで有料視聴できますので、機会があればご覧ください。
今、日本は平和を謳歌していますが、世界では紛争が絶えません。戦火に追われるウクライナの人達の姿には心が痛み、遠い国のでき事とは思えない危機感を持つようにもなって来ています。100年も経たない、ついこの前ともいえる過去には、私たちの住む谷矢部東にも空襲による火の雨が降っていた日々があったことを改めて考えたいと感じます。
次の機会には、戦争中に疎開の子ども達のために柏尾川の桜を切り倒し下駄や薪としたことについて調べます。
<関連リンク>
横浜市史資料室 https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/
戸塚見知楽会 https://www.youtube.com/watch?v=uh_YUcwgE4A
<貸し出し可能な参考文献> お気軽にデジタル部までお問合せください
『戸塚区史 区政50周年記念』1991(平成3)年 戸塚区史刊行委員会編
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