谷矢部東町内会が利用している青少年会館のある街山(つじやま)八幡社は、室町時代に地頭(じとう)の「竹ノ下(たけのした)小次郎」が、後醍醐天皇の忠臣として名高く、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の三男「新田義宗」(?-1368)が護持していた八幡大菩薩の神像を奉祀し創建したのが始まりとされています。
今回は谷矢部東にゆかりの深い、この「竹ノ下小次郎」にフォーカスします。
雲林寺も再興した、竹ノ下小次郎
竹ノ下小次郎については、お隣の柳作町内にある雲林寺に、1929(昭和4)年/己巳「つちのと・み」 の年(60年に一度の「へび年」として縁起の良い年)、柳作に住んでいた寺村清吉という人の筆になる小次郎の菩提供養のための木版が残っています。この木版には、室町時代初期に三浦郡(今の横須賀市)の矢部と今私たちが住む戸塚の矢部も治め街山八幡社と雲林寺を創建・再建した三浦一族の人、と記されています。(編集部が一部を現代文に改変し、下線と注釈を加筆)
「竹ノ下小次郎の祖先は、執権北条義時(鎌倉幕府第2代執権、頼朝の正室/北条政子の弟)の専横を怒り建保の難(和田合戦)の主将和田義盛以下93党内の遺族。鎌倉管領足利氏満の頃(室町時代初期)、公郷(今の横須賀市内)に居住し、太田及び矢部(いずれも三浦郡内)を領して任せへし。太田和(おおたわ)義政の推挙により、当矢部を知行す。祖先は建保の難に敗し逃走し、再び和田・竹ノ下村に戻り居住せしが、北條執権の虎眼を怖れて、本姓を竹ノ下と改称せし者ならん。元は和田氏名を称せん者なることを推定さる。要するに三浦党の一族なることは立証するに足るものなり。
応永より永享年間、当の矢部を知行、竹ノ下に居住す。当時、雲林寺は伽藍その他破壊せんを、小次郎、その由緒をたずね、応永10(1403)年、浄財を喜捨して修復に力す。(中略)常に神仏崇敬の念深く、所々に史跡を遺せしは、小次郎の人格をしのぶべき。
実に三浦党の誉なり。永享9(1437)年9月16日逝。雲林寺中興開山と崇められる」
雲林寺には小次郎と家臣3名の名が刻まれた石碑も残されています。
矢部の地を治めるための重要施策?
この内容を参考にしながら三浦氏に関する事柄とともに年代別に並べたのが下表です。
平安時代末期から三浦半島・相模国・安房国等まで広く領していた三浦氏一族は、鎌倉時代と室町時代に2度も合戦で敗北して滅亡しながらも、その度に復活を遂げ、戦国時代に北条早雲(後北条氏)に完全に滅ぼされるまで不死鳥のようによみがえります。
その一党に名を連ね、室町時代を生きた竹ノ下小次郎は、鎌倉幕府滅亡後の南北朝の動乱時代の武蔵野合戦にあっては南朝方につき足利尊氏に敗北しながらもゆるされた三浦の庶家の一員です。天皇への忠節で名高い新田氏のために八幡社を造営し、滅ぼされた北条氏側の寺である雲林寺も再興したのは、鎌倉管領の足利氏の命を受け、合戦後50年以上を経ても新田氏や北条氏への崇敬が厚い地域であったことも踏まえ、三浦氏一族を用いて人心を掌握し治めるための重要な施策として展開したのではないでしょうか。(記事関連事項は赤字。特に重要事項は下線)
<平安時代末期~鎌倉時代>
1180年(治承4年) 源頼朝、挙兵(石橋山の戦い)。源氏方の三浦義明、衣笠城で死す。
1185年(建久3年) 頼朝、鎌倉幕府を開く
1210年(承元4年) 北条政子 雲林寺(天台宗)建立
1213年(建保元年) 和田合戦 和田義盛(三浦義明の孫)死す
1247年(宝治元年) 宝治合戦 三浦本家滅亡、佐原一党が三浦本流となる
<鎌倉時代末期~室町時代(南北朝時代)>
1333年(元弘3年) 新田義貞に攻められ、執権北条高時自害、鎌倉幕府滅亡
1334年(建武元年) 後醍醐天皇による建武の新政
1338年(北朝 暦応元年) 足利尊氏、征夷大将軍となり京都に室町幕府を開く
1349年(北朝 貞和5年) 鎌倉府(鎌倉管領)設置
1352年(北朝 文和元年) 武蔵野合戦。足利尊氏に敗れ、新田義宗(義貞の三男)・三浦高通敗走、北条時行処刑
1377年(天授3年)
~1402年(応永9年) 赦された三浦高通、相模国守護となる。
1398年(応永5年)頃 三浦郡内の太田と矢部(今の横須賀)にいた竹ノ下小次郎が太多和義政(これも三浦一族)に推挙されて、戸塚の矢部も知行
1403年(応永10年) 竹ノ下小次郎 雲林寺再興。この頃 、街山八幡社造営?
1437年(永享9年) 小次郎死去
<室町時代(戦国時代)>
1516年(永正13年) 新井城(三浦半島)で三浦義同(よしあつ)・義意、北条早雲に敗死
矢部の名前が残る横須賀・衣笠城下
三浦氏と矢部のつながりを横須賀に訪ねてみました。
まず、2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する、佐藤B作さんが演じる「三浦義澄」。
中世の人たちは一族を呼び分けるために「土地の苗字」で呼んでおり、義澄の土地の苗字は何と「大矢部」!この「大矢部」の地名は今も横須賀市に残っています。義澄の父であり、頼朝挙兵に呼応して衣笠城に籠城し平家方と戦い壮絶な最期を遂げた「義明」の廟所の満昌寺の住所も「横須賀市大矢部(旧:三浦郡矢部郷)」です。このお寺の守護神である、気迫のこもった鎌倉時代の木彫「三浦義明坐像」(国指定重要文化財)も予約拝観できます。
横須賀・衣笠城跡周辺には大矢部城・小矢部城跡や大多和という地名も残っています。三浦氏との関わりを考えると、戸塚の谷矢部や上矢部、矢部という地名は、これらの横須賀にある地名に由来すると思われます。雲林寺の木版の裏に書かれた系図では、大多和義久(義明の子)の子孫として小次郎が記されています。竹ノ下という地名は残念ながら見つけられませんでしたが、今の大多和の近くにあると思われます。「竹ノ下小次郎」も「竹ノ下」という「土地の苗字」で呼ばれ、これが谷矢部東に隣接する「竹下」地区にも受け継がれたと推察されます。満昌寺の副住職の永井宗徳さんは「日本中の三浦一族の方からの問い合わせがあるんですよ」と笑って話しておられ、鎌倉時代に北条氏と並ぶ大きな権力を握り全国各地の国守となった三浦氏は、今でも日本中に末裔がいるようです。
才色兼備の矢部禅尼と、北条政子の雲林寺
また、鎌倉時代の宝治合戦後に三浦一族の復活を支えたのが「矢部禅尼」。
彼女は義澄の孫にあたりますが、初め執権北条氏に嫁ぎ北条時氏を生み執権家の嫡母となり、その後三浦庶流の佐原氏に改嫁します。宝治合戦で本家の三浦氏が滅びた際には、佐原家で生んだ三人の子ども達を北条方につけることで三浦一族の復活につなげました。当時は身分が高く才色兼備な女性ほど結婚の数が多く、女性の財産権は男女平等。鎌倉時代に定められた「御成敗式目」では、夫の死後、再婚せずに後家尼になって亡夫の菩提を弔うことで遺領を継ぎ、家長として意志を反映できることが保証されていました。父家長制と母家長制が並立しており、後家尼の権限は強大でしたので、矢部禅尼は佐原家の女家長として矢部別荘(横須賀市大矢部)に住まいながら、北条氏や三浦氏の自分の子ども達の去就にも大きな影響を及ぼしたことでしょう。
同様の例は北条政子にも当てはまります。頼朝の後家尼として源氏・北条氏双方に絶大な権限を持ち、寺院も数多く建立した北条政子は雲林寺(当時:天台宗)も建てます。本尊 阿弥陀如来座像の胎内には政子の護持仏である純金の観音像があったと言われ、今でも政子を開基と仰ぎ、その位牌を本堂にまつり毎朝ご供養されています。また古くは、現在のセブンイレブン横浜矢部店裏の山を登る路から雲林寺へと入っていたらしく、山の登り口、つまりセブンイレブンのあたりには観音堂があったと言われます。雲林寺にはゆかりの観音様もまつられています。
なお、本尊の阿弥陀如来座像が柳の木で造られていると伝えられていることから、付近を「柳作」と呼ぶようになったと言われていますが、近年の解体調査の結果、柳で作られたものではないことがわかったそうです。雲林寺の住職であり、柳作町内会長の北見秀明さんは
「諸説ありますが、寺に由緒のある宝物が柳でできていたのか、あるいは近くまで柏尾川が流れていたとも言われており、昔、門前には大きな沼があり水辺にたくさんの柳の木が生えていたことから名づけられたのかもしれません。江戸時代に再び曹洞宗の寺院として再興された時の古い山号は『柳谷山(りゅうこくさん)』でしたから、柳に縁の深い土地柄だったのでしょう」
と話されていました。ちなみに現在の雲林寺の山号は龍谷山(りゅうこくさん)。いずれにしても、沼や龍、柳といった水との関わりの深い地域であることは間違いないようです。
こんな身近なところに、日本の中世をめぐる壮大な歴史ドラマがあったとは!まるで『太平記』の世界です。
矢部・竹下・柳作と、ゆかりの三浦半島、神奈川、千葉を探検してみてください。
そして、新しい発見があったら、ぜひ谷矢部東デジタル部(info.yatoyabeeast@gmail.com)までお知らせください! お待ちしています。
リンク 満昌寺 https://manshoji.com/
参考文献(お貸し出しできますので、お気軽にデジタル部までお問合せください)
・『戸塚の散歩みち』 1978(昭和53)年1月 「郷土戸塚区歴史の会」編集
・『相模三浦一族とその周辺史』 2007(平成19)年6月 鈴木かほる著 新人物往来社刊
・『戸塚の寺院誌』 2010(平成22)年4月 「戸塚区仏教会」編集・発行
・『三浦一族の中世』 2015(平成27)年5月 高橋秀樹著 吉川弘文館刊
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脇元 将仁 (日曜日, 23 10月 2022 22:10)
本日(2020年10月23)街山神社で草刈りをご一緒させて頂いた、蔵坪 スポーツ推進員の脇元と申します。
早速ブログを見させて頂きました。
本当によくお調べのようで、ここまで拘った調査結果は見たことがございません。(びっくり!!)
僭越ながら気になって点以下記載させて頂きます。
① 鎌倉幕府の設立は、近年歴史解釈が異なり、1185年とされています。
征夷大将軍(1192年)とは、全国を統治する地位(例:徳川家康)と見なされてはいるが、鎌倉時代は、頼朝が歴史上初めて大将軍という役職名を賜ったもので、奥州藤原氏(征東大将軍?)に対向する為に取って付けたようなものだったらしく、特別幕府設立の瞬間とは解釈は出来ないとされています。1185年は頼朝が日本全国に家来を派遣し、鎌倉を中心に全国を統治する中央集権体制を確立したとの事で、今の歴史の教科書には1185年とされています。しかし鎌倉殿の13人を見ていると、本当は承久の乱後が本来の幕府設立にしてもいいような気もしますね。
② 竹之下小次郎さんに関して;
街山神社にのこされる記録では、新田義宗本人がご神体を小次郎さんに手渡ししたように記載がありました。
武蔵野合戦が1352年、小次郎さん死去は1437年なんで若干年代が合わない気がしますね。(小次郎さん100歳以上生きていたとは思えない)
*私自身、貴方ほどの情報は持っていなく、ここまで纏めきれる能力も持ち合わせていません。
可能ならば、歴史解釈に関し議論できる方がいたらいいな~との思いで意見させて頂きました。
申し訳ございません。
山崎 まり (火曜日, 22 11月 2022 10:12)
蔵坪 脇元さま
「ぶらりYABE」をご覧いただき、ありがとうございます。また、ご返信が遅くなりましたこと、お詫びいたします。本ブログの執筆を担当しております、山崎まり、と申します。
とても深く三浦一族に関してお調べになっていると拝察申し上げます。
同好の方がおられて嬉しいです。
①について、現代の内閣の組閣のようにシステム化されていたわけではないだろうと思います。1192年は頼朝、征夷大将軍に任ぜられた年であり、京都とは異なる政治体制を敷いたのが
1185年という理解ですね。本ブログの記述は教科書通りに「1185年 源頼朝、鎌倉幕府を開く」としたいと思います。ご指摘、ありがとうございます。
➁について、神奈川県神社庁の記述では「応永年間に勧請されたとされているが創建年代は明らかではない」と記載されていますが、当時の人心を掴む施策の一環として、この地域を統治していた竹の下小次郎が雲林寺の再興と併せて、新田氏関連の一党(落ち武者ではない)から譲り受けた八幡大菩薩を祀ったというのが妥当ではないかと考えています。個人的には、街山八幡社の記述が若干正確性に欠いていると感じています。
今後とも、様々な情報交換ができれば嬉しく存じますので、ご意見等をお寄せください。できれば、このブログに掲載するネタのご提供も有難く存じます。お待ちしております。
アザリエ住民 (水曜日, 07 12月 2022 01:14)
近隣のアザリエ自治会居住のものです。
2022/12/4の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、ドラマの後に流れる「紀行」にて雲林寺が出てきてびっくりしました。
そしてそのつながりでネットで探してたらここにたどり着きました。
「紀行」では、北条政子が創建に関わった寺、として、政子の位牌があることを紹介するに留まっていましたが、こちらを読んで、実はドラマの主人公、北条義時にやられた和田義盛の末裔、竹の下小次郎が、北条政子の関わる(ということは先祖のかたきの一族)寺を再興したということなら、これはすごく面白い話で、大河にはまっている方にも教えてあげたい話です。
横須賀市大矢部と、我が戸塚区矢部町の、矢部同士のつながりも興味深いです。
そういえば、我が自治会のアザリエという名前、逗子にもあるそうで(あちらにはアザリエ循環というバスの系統まであるそうで)、三浦半島と矢部町はいろんなつながりがあるのだなぁと感心してしまいました。
郷土史は非常に面白いので、これからも期待しております
山崎まり (木曜日, 08 12月 2022 16:50)
アザリエ自治会の住民様
「ぶらりYABE」を担当しております、谷矢部東町内会デジタル部の山崎と申します。
このたびは温かい励ましをいただき、ありがとうございます!
ご指摘のとおり、戸塚周辺と三浦半島はとても深いつながりがあると思います。
戦中に戸塚周辺に建設された軍需工場群も、多くが横須賀海軍基地に向けてのものだったようです。
(ブログ https://www.yatoyabe-higashi.com/2022/05/31/土地の記憶-その3-戸塚にも火の雨が降った日/ に記載のとおりです)
また、北条と三浦という仇ともいえる一族同士が、鎌倉末期から南北朝時代には手を結んで、またその後には人心掌握のために寺社を再興する…と。日本の中世の人達のしたたかさは、はんぱない!と、私も感心しきりです。
戸塚の郷土史というと、どうしても東海道宿場(江戸と上方との行き来)という側面に目が向きがちですが、私たちの小さな町内会の歴史を探訪するだけでも想像力をかきたてられる発見が少なくありません。
是非、アザリエ周辺(特に谷矢部池裏からしらゆり公園にかけての古道の歴史)について、お調べになっていることがあれば教えてください。
引き続きのご支援をどうぞよろしくお願いいたします!
なお、雲林寺様を「紀行」で取り上げてくださった某放送局には、今年のGW頃に本ブログによる情報提供の一報を入れさせていただいた経緯がございます。それだけで取材にいらしたわけではないとは思いますが、とても嬉しかったです。
脇元 将仁 (木曜日, 05 1月 2023 11:40)
山崎まり様
②に関して、私はてっきり新田氏落ち武者が鎌倉から逃げる際に、ご神体を竹之下さんに託したのだと思っていました。街山神社記載が正確性に掛けるとの事なので、竹之下町内会長に話してみます。
山崎まり (土曜日, 07 1月 2023)
脇元さま、追加でのコメントをありがとうございます。正確な史料が残っていませんので真実は闇の中で憶測の域を出ませんが、新しい議論のきっかけを創れればと願っています。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。