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土地の記憶 その2 東亞特殊製鋼「戸塚工場」と富山の松岡松平

明治初年の記録が残る登記簿謄本
明治初年の記録が残る登記簿謄本

「製鉄報國」をめざした東亞特殊製鋼 戸塚工場

 谷矢部東地区は、第二次世界大戦後に神奈川県営住宅地として開発されましたが、それ以前、法務局の土地登記簿謄本(左画像)には「字(あざ)越之下(こしのした)」として明治初年からの記録があります。最も古い所有者は中留村和泉の清水源右衛門。その後、鎌倉銀行、神奈川区浅間町の三村氏、長野県の日本触媒工業という会社に所有権が移ります。1939(昭和14)年には「重宗雄三」という人物に売却され、戦争を経て1952(昭和27)年に神奈川県が買収しています。谷矢部東の県営住宅地は、その後に開発されました

1946(昭和21)年の谷矢部東地区 横浜市HP「三千分の一地形図」より
1946(昭和21)年の谷矢部東地区 横浜市HP「三千分の一地形図」より
1947(昭和22)年の航空写真(緑の枠線内 谷矢部東地区 国土地理院HPより
1947(昭和22)年の航空写真(緑の枠線内 谷矢部東地区 国土地理院HPより

 古地図を見ると昭和の初めまではすべて田畑でしたが、1947(昭和21)年の航空写真では工場地区になっています。調べると、「東亞特殊製鋼株式会社」という会社の工場であったことがわかりました。この会社は1938(昭和13)年に設立され、1940(昭和15)年に「富山特殊鋼株式会社」を吸収合併し『決算報告書』によると「砂鉄直接製鋼法」を用いた炭素バナジウム鋼、ピアノ線鋼材、製鋼原鉄、特殊鋼を製造し、戸塚を主力工場とし日本海軍を主な販路としていました。

 製鉄というと鉄鉱石を原料にし、大規模な高炉で鉄を造る工場をイメージしますが、谷矢部東地区にあった工場は、刃物や工具に使われる「鋼(ハガネ)」の材料である砂鉄や炭素を原料とした「多々良(たたら)製鉄」の工場だったことが想像されます(神野洋輔さん/2班調べ)。戦争中、軍刀の需要が増大していたことが背景になっているかもしれません。

 戦況が悪化し原材料が不足する中にあっては、岐阜や長野で瀬戸物やレンガ用の窯を使いながらも製造を続けています。『決算報告書』には当初、「粉骨砕身(ふんこつ・さいしん)をもって『製鉄報国』の誠を尽くす」といった勇ましい言葉がに綴られているものの、年を追うごとに華々しい記述は影を潜め簡単な記述になっていきます。

1943(昭和18)年12月神奈川新聞掲載 「東京湾要塞」HPより
1943(昭和18)年12月神奈川新聞掲載 「東京湾要塞」HPより

東亞特殊製鋼株式会社『決算報告書』にはこんな記述が

1941(昭和16)年118日 

・「戸塚工場」に電気炉3基を全従業員の協力で据え付け完了。当日は陸海軍並びに商工省等の来賓者250人余りが臨席し盛大に火入れ式を挙行。

1942(昭和17)年

・「戸塚工場」の第2期拡張計画として、敷地約3万坪を拡張して、研究室、倉庫、「青年学校」等、延べ1821坪を建設する予定。

7月 屋外変電所が落成し受電電力は6600ボルト(容量3000キロワット)に拡張。新たに大型電気炉、アジャックス炉、蒸気槌等が増設拡充。

・艦政本部の斡旋によって、豊中、呉、横須賀、舞鶴その他の各海軍工廠からの受注増。海軍中央統制契約に加入が決定。

・大原/三門(千葉県)に海綿鉄工場を開業。

1943(昭和18)年

・「戦時即応生産」に備え、従業員一同「燃える火の玉」となって戸塚や大原/三門の増設、島田(静岡県)と呉羽(富山県)での工場新設の第三期建設計画に着手。

・軍からの委託により岐阜県・愛知県の瀬戸物やレンガ用の窯を使って海綿鉄を製造

・同年、本社を内幸町(東京都)から急遽、京橋に移転(恐らく戦災により)

1943(昭和19)年

・木材入手が困難なため工事は遅延しているが官民を挙げて邁進

 谷矢部西町内会の成宮保彦さんは太平洋戦争の頃の状況を「製鉄所のたたら炉から炎が出ていたのを見たような記憶がある」と話してくださいました。

私たちの町内では昔、家の新築等の際に掘り返すと大きな鉄やコンクリートの塊が出て来たことがあるというのは、この製鉄工場に関係があるかもしれません。

「サイドヒル矢部」裏の駐車場近くに残る防空壕跡(鈴木正雄さん撮影)
「サイドヒル矢部」裏の駐車場近くに残る防空壕跡(鈴木正雄さん撮影)

富山出身の松岡松平氏が造った戸塚工場

 さて、登記簿謄本に名前のあった、戦前・戦中に谷矢部東の土地を持っていた「重宗雄三」は、東亞特殊製鋼社の取締役の一人であり、同社の創業者は「松岡松平(まつへい)」という人でした。松岡は終戦直後の状況を「当時、私は海軍政本部特別管理の製鋼会社の社長をしていた。傘下に130を超える工場と従業員は九千数百人を擁していた。(中略)使命を失った工場と職を失った従業員を抱え、路頭に迷った」と著作『新時代の歩み』(1966/昭和41年 新生新社刊)に記します。

 

また、終戦直前の1945(昭和20)年に東亞冶金工業専門学校(前述の「青年学校」)を創立し、1950(昭和25)年には「湘南工業短期大学」として新設し116名を卒業させますが、翌年涙をのんで廃校したとも述べています。この学校は、小トンネルを鳥が丘方向に出た右手のマンション「神奈川県営サイドヒル矢部」にあったようです(神奈川県住宅営繕事務所によると、この地区は古く「宮の前」と呼ばれていました)。このマンション裏の山には「昔、水晶が採れるという噂があり防空壕跡に入って遊んでいた」と鈴木正雄さん(12A)も成宮さんも笑って話していました。(神野洋輔さんは貝の化石を拾ったそうです)

松岡松平先生像(富山県)
松岡松平先生像(富山県)

創業者の松岡は1904(明治37)年に富山県に生まれ、20歳で弁護士を開業し37歳で東亞特殊製鋼を設立。戦後、軍需産業に関わったことから公職追放となりますが、1945(昭和20)年に鳩山一郎率いる自由党の総務となっています。1948(昭和23)年、政・財・官からGHQまで巻き込み、芦田内閣総辞職につながった一大贈収賄事件である「昭和電工事件」に関連して国会で証人喚問を受け、松本清張の『日本の黒い霧』の中にも名前が出てきます。1952(昭和27)年には富山1区から立候補して当選し衆議院議員となり国会対策副委員長も務めます。その後、落選・再選を繰り返し1972(昭和47)年の総選挙で国政に復帰したものの、在職中の1975(昭和50)年に71歳で死去しました。

 

松岡の地元、富山県上市町(かみいちまち)にお住まいの中小企業診断・社会福祉士の成川友仁(なりかわ ともひと)さんからは「松岡松平さんは今、功績を偲ぶ銅像として町民グラウンド(昔の中学校の運動場)を静かに眺めています」と、降りしきる吹雪の中で撮った写真を送っていただきました。戦中・戦後の混乱期から高度成長期にかけて逞しく生き抜いた実業家・政治家の一人として、古老の方は「まっぺい」さんとして記憶しておられるそうです。この銅像の人物が一時期、今の私たちが住んでいる同じ場所で苦心惨憺しながら過ごしていたのか…。

 

 時間と空間をはるかにこえて、富山と谷矢部東との不思議なご縁を感じました。

こちらの記事に関連した情報をお持ちの方は、是非、谷矢部東デジタル部(info.yatoyabeeastgmail.com)までご連絡ください!お待ちしています。

 

関連リンク 

東京湾要塞 https://tokyowanyosai.com/

 

ひる の なりかわ http://pronarikawa.blog.fc2.com/